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Act Against Homophobia
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LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の人権問題を考える上で障害になる、社会の中に蔓延するLGBTへの嫌悪感や恐怖感(ホモフォビア)について、多くの人に知ってもらうことが当企画”Act Against Homophobia”の目的です。
賛同文

Act Against Homophobia(国際反ホモフォビアの日)の主旨に大いに賛同します!!

しかし、このように言った瞬間から、次のような問題が浮上する。ホモフォビアとはどのようなものなのか?反ホモフォビア活動とはどのような活動を指し、何を意味するのか?一体、誰に対してそのような活動をするのか?などなど。このような問いに答えずに、「賛同します」と言ったところで無責任な発言と行為になるだろう。だが、このような問題とその答えは、問うた人間、そして問われた人間にしか分からないと断言したくなるほど複雑で微妙で政治的なものだ。たとえば、「ホモフォビア」とは何かと考えてみるだけでも日本のセクシュアル・マイノリティーズが抱える問題の大きさの一端が吹き出す。一般に、ホモフォビアは「同性愛嫌悪」という言葉に訳されるが、IDAHO(International Day Against Homophobia)のホームページで伏見憲明さんが書いているように、日本ではホモフォビアはヨーロッパやアメリカ、もしくは明確に刑法に書き込まれているアラブ諸国のように明瞭な形を取らず把握することが難しい。日本においてホモフォビアは「蔑視」にでも「笑い」にでも「好奇心」にでも変化するのだ。

さらに、ホモフォビアに対する批判そのものがホモフォビアを抱くとされる人々に対してフォビック(嫌悪的)な態度に変化してしまうという悲喜劇も少なからず起こりうることである。あなたがホモフォビアを抱いているのは、「頭の固い人間だからだ」、「時代遅れだ」、「人間的に許されない」、「田舎出身だからだろう」、「人権を知らない北朝鮮人と同じだ」などなど。こうなってしまうと、「ホモフォビアに反対していこう」という言葉と他者に対してフォビックに振る舞う自分の立場に齟齬をきたしてしまう。そして、自分以外のマイノリティーズを傷つけもするだろう。

ホモフォビアを「嫌悪症」と呼び、「病的」で「異常」なものと見ることは、必然的に「正常な状態」、「正しい精神構造」を想定することになる。果たして、ある認識をこのように指摘することが有効なのか疑問である。とくに、これまで歴史的に「病的な人格」だと言われ続けてきたマイノリティーズの運動の中において。そして、さらに問題を複雑にするのは、先ほども述べたように、レズビアンやゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーに対する日本の中に行き交う眼差しが、必ずしも生命や社会生活に危機が及ぼされるほど強烈な攻撃性や敵意を含まないという事実だ。実際は多くの人々が生活の中で多くの苦労に直面していても、ホモフォビアという言葉、「同性愛嫌悪」という訳語はこのような微妙な状況を捉えきれていない。

アメリカの文学批評家のイヴ・コゾフスキー・セジウィックは、ヘテロセクシュアルとホモセクシュアルのカテゴリー論に多くの議論を割いていたそれまでのセクシュアリティ研究において、「ホモフォビア」の視点から文学批評を行なうことによって新たな領野を開いた。彼女の議論は、近代の家父長的な西洋社会は「ホモフォビア」によってホモソーシャル(たとえば、軍隊などの同性のみによる社会)とホモセクシュアル(同性愛者)の間に区別を設けることが可能となるのだが、同時にその曖昧さによってその境界は絶えず脅かされている、というものである。つまり、彼女の議論のある側面を極限まで単純化すると、「ホモフォビア」とは、「篤い友情」と「愛情」といった曖昧さがつきまとう感情の移動する分割線として機能するのだ(濃密すぎる友情に対し、第三者からあれは「ホモ」、もしくは「レズ」だと言われた瞬間、それは社会によってイエロー・カードを突きつけられていることになる。あるいは、男同士の親密な友情は、「私たちはホモではない」ということを示し続けることで社会的に許されるものとなる)。いわば、ホモフォビアとは、社会のあらゆる場面で作用するある「限界設定」なのである。私がここで提案したいのは、ホモフォビアを「嫌悪症」としてではなく「ホモセクシュアリティやその周辺で形成されるある限界の設定」だという視点で日常生活を考えることが、特に日本のような曖昧な「日本版ホモフォビア」に対処するには有効ではないか、ということである。

ホモフォビアは、単にレズビアンやゲイ、トランス・ジェンダー、バイセクシュアルなどのセクシュアル・マイノリティーズに対する暴力や攻撃ばかりではない。例えば、公的な場所で男女のカップルや夫婦は歓迎されるのに、同性同士や同性同士に見えるようなカップルに対して行われる規制は、明らかに作為的な「限界設定」であり、ホモフォビックである。職場で異性のカップルが当然受け取れる権利を同性カップルが受け取れないことは、当然ホモフォビックな状況である。異性間の恋愛ならば当然のように話せるが、それ以外の間の、必ずしも「異性」間による「常識的な」の形式以外の恋愛が語れないのならばホモフォビックである。自分自身に対し、「普通ではないから」といって当然のように自分自身に何かしらの限界を設けるのならば、これも当然ホモフォビアである。ホモフォビア、ある限界の規定は、暴力はもちろん、蔑視でも笑いでも好奇心でも自己規制でも、あらゆる手段で行われえる。

よって、反ホモフォビア活動はこのようなものになる。不当なものはもちろん、一見当然のように装っているホモセクシュアリティとその周辺にある「限界」に対して、異議を唱えることだ。満足は最大の敵になるだろう。自分の中に無意識のうちに設定している限界を見つけよう。社会から当たり前のように要請される「限界」に肘鉄を食らわせよう!自分にとって必要なことを、不可能なことを臆することなく求めていこう!

私は、そのような意味で、Act Against Homophobiaに大いに賛同させていただきます!!!!!

(執筆者 K.)
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