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メキシコ:TVコマーシャルがメキシコ社会の問題に光を当てる
現在、メキシコで行われているアンチホモフォビア・キャンペーンがメキシコ社会に内在している様々な問題に光を当てている。

Anti-homophobic TV ad brings problem to light

MEXICO CITY - "You look so in love, my darling," a mother tells her son in a radio commercial that has sparked a controversy here. "I can't wait for your partner to come to dinner. What is your partner's name again?"
"Oscar, Mama," a male voice replies, revealing to the listener that his lover is another man.
The commercial, which has been dubbed The dinner, is part of Mexico's first-ever national campaign against homophobia, which was recently launched by the Health Ministry's anti-AIDS agency.
Mexican law already bans discrimination against minorities, and gays have become more open and accepted in larger cities. But lobby groups say the campaign is sorely needed to counter anti-gay attitudes that are still widespread in macho Mexico
(訳)
メキシコ・シティ―「あなたは恋をしているようね」と、ラジオのコマーシャルで母親が息子に言うところで、議論に火がつけられる。「あなたの恋人が夕食に来るのを待っていられないわ。恋人の名前は何だったかしら?」 「オスカーだよ、ママ」 男性の声が答え、リスナーに彼の恋人が男性であることが明らかにされる。
この「夕食」と名づけられたコマーシャルは、最近厚生省のエイズ対策機関が行っているホモフォビアに対するメキシコ初の国家的なキャンペーンの一部である。メキシコの法律ではすでにマイノリティへの差別を禁止し、大きな都市ではゲイももっとオープンになり受け入れられつつある。しかし、運動団体は、メキシコの男性社会にまだ広くある反同性愛者の姿勢に抵抗するためにキャンペーンはとても必要だと話している。

A fight for dignity

Sanchez hopes the anti-homophobia campaign can help improve life for her and her grown child, a son who has undergone a sex-change operation.
When he came out of the closet about his homosexuality six years ago, she says her husband left and she was fired from her post as a teacher in a private school. Her 24-year-old is unable to get a job, despite a university degree and excellent qualifications, she says.
The experience has made Sanchez denounce her Catholic religion and become an anti-homophobic activist.
"I just want my child to be able to live with dignity," Sanchez says. "I stand by her all the way"
(訳)
尊厳のための戦い

サンチェスはアンチホモフォビアのキャンペーンが彼女と性転換手術を行った息子の生活が改善される手助けになればよいと願っている。
息子が6年前に同性愛者であることをカミングアウトしたとき、夫は出て行き、彼女は私立学校の教師という職を解雇されたと彼女は言う。彼女の24歳の子供は、大学の学位と優秀な技能を持っているにも関わらず、仕事を得ることができないと彼女は言う。このような経験がサンチェスをカトリックの批判者とし、アンチホモフォビック運動の活動家にした。
「私はただ私の子供が尊厳と共に生きることができるようになって欲しいだけだ」と、サンチェスは言う。「私はずっと彼女(息子)に味方する」

Houston Chronicle May 14, 2005



このニュースの一部しか訳せませんでしたが、記事にはエイズ問題や同性愛者への暴力などメキシコの社会のことがわりと詳しく書かれているので、興味があって英語が読める方は目を通してみるのもいいかもしれません。

海外のニュースを引いてきても、やはり私の興味は日本についてです。日本に生活していて、たまになぜセクシュアル・マイノリティーズの社会活動が大きな運動ならないのかと友達と話したりするのですが、多くの答えは、「日本の風土に合わないから」というものです。しかし、この答えは答えになっていないでしょう。質問に対して同語反復としてしか機能していません。考えなければらないのは、なぜ日本はそのような風土なのか、ですね。

その他の答えには、むしろそのような運動が起こること自体迷惑だというものです。現在の生活に満足しているし、大きな差別を感じない。それなのにセクシュアル・マイノリティーズの運動が起こったら、逆に反動として差別が起こってしまうかもしれない。日本の社会は特殊なのだから、西洋式の運動論を当てはめようとすること自体間違っているのではないか。このような意見もよく聞きます。

私がよく耳にする二つの意見はどちらも、日本は独特の社会なのだということが根底にありますね。明治開国以来、右翼も左翼も捨てることのなかった日本のアイデンティティです。そしてこの「独特の社会」の一言をもって、思考を停止していることを正当化しているような気がします。特に後者の意見は、日本のシステムを見た場合に、一見して同性愛やTS,TGに対して差別的であることが分かるのに、ただそう「感じない」だけで現実を見落とします。そろそろ日本は特殊なのだというドグマから解放されてもいいように思うのですが。

もうひとつ、気になる意見は、「できるだけ刺激するな」論です。上でも少し触れていますが、できるだけ刺激しないことがもっともよいと言われたりしますね。例えば、部落差別について教育する場合に、現在の子供のほとんどが部落を知らないのに、部落について教育をすることによって逆に部落差別を根付かせるのではないかと。日本の戦後処理もそうですが、忘却こそ最善の方法らしいです。しかし、歴史に学ばなければ、また同じような差別を繰り返す可能性が常にありますし、歴史を知らない人は現在も知りません。

もし、日本に特殊な風土があるとしたら、それはできるだけ問題に直面せず、思考しないことかもしれません。メキシコの今回の記事は、アンチホモフォビック・キャンペーンが社会の問題に光を当てているというものでした。日本の「特殊な風土」がしようとする傾向が、社会の問題を直視しないために、反差別キャンペーンを避けるようとすることなのだとしたら、あまりに寂しい社会ではないでしょうかね。。。

執筆者 K.
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コメント
この記事へのコメント
▼ 日本の運動論?
「日本の風土だから」という答えで終えてしまうのはお粗末です。
私も賛同します。
私が思うに、そこから進んで、「日本の風土とはどのようなものか」を考えることは必須事項だと思います。
極端な話、現状がよく分かっていなければ、西洋の運動論を持ってきたとしても的外れな対応策になってしまいます。
何かが起きている→対応する、という行動パターンがありますが、当てはめると、原因(現状)→運動というパターンになると思います。
シンポシオンも同じく現状を「分かって」からこうした運動をしていますよね。
K.さんは「日本のシステムを見た場合に、一見して同性愛やTS,TGに対して差別的であることが分かる」と述べています。
推測はいけませんが、あえて犯せば、セクシュアル・マイノリティーズが隣にいることを知らずに嘲笑する人々がいる現実がまずある、というのが1つあると察します。
(もちろんいろんな偏見や差別があると思います)
そうした状況を「察し」たので、セクシュアルマイノリティーズが可視的な存在になるように、シンポシオンが動き出したのではないでしょうか。

運動を行うこと、それは重要です。
しかし、一方でそうした「察し」を常に自己反省しながら運動を行っていくことも重要だとも思うのです。
そうでなければ、どのような運動をするのか、多様な運動方法の中から選ぶ基準が作れません。
逆に現状をつかむことで新たな運動方法を作ることができるのだとも言えます。
そのためにも、その運動方法を適応させる日本の風土にはどのような特徴があるのか、を考察することは運動と同時並行で必要でしょう。

もちろんこのことをもっと考えるべき、といったところで、西洋の運動論が実際に使えないということではありませんし、
ましてや運動をするなということを意味しているわけではありません。
実際に日本のゲイ・ムーブメントが西洋の運動論を参考にし、そして応用し、功績を上げました。
しかし一方で、それに対して反発したりピンとこなかった人がいることも事実です。
そうした人たちを含め、まず現状把握をしていくこと。
どのような状況や現実が存在するのか。
数は1つではありません。
複数の状況や現実が存在します。
そうしたsituationsやrealitiesを把握しつつ、それぞれにに対応した方法を使ってそれぞれの「運動」していくこと。
私はそうした動きは重要だと思います。
もちろん複数の状況が存在すると、それに対応させる方法同士、相反することもあると思います。
そのときはまたお互いに議論し合って、そのときに出せるベストな方法を編み出し、ベターな結果を残していければいいのではないかと思います。

ちなみに、「日本の風土」と称するものにアプローチする方法を、あ・え・て・1つ提言すると、
日本のゲイ運動の方法論が功績を挙げたのは、どの日本の風土にヒットしたからなのか、また逆に、それが犯した功罪とはなんだったのか、を改めて振り返ることは有効だと思います。
運動に反対した人々や参加しなかった(できなかった)人々の想いも救いとることは、
(よりよい社会を作っていくためのシンポシオンの運動が、結果的に独善的なものになってしまわないためにも!)
運動と同時に現状を見据えていく態度も必要なのではないでしょうか。
2005/05/16(月) 18:53:54 ・ B. (URL) qbIq4rIg ・ [編集...]
▼ コメントありがとうございます。
緻密な文章で書かれたコメントをどうもありがとうございます。Bさんはさぞ博識な方だとお見受けします。

基本的にBさんと私の意見は変わらないものだと思うのですが、私は「日本の風土はどのようなものか」という質問以上に、相互不可分のものですが「その「日本の風土」なるものを何が作り出し、維持しているのか」と問う必要を強調したいと思います。「日本の風土はどのようなものか」というアプローチは、あたかも「日本の風土」というものが固定的に存在し、問う人間の意志とは関係なしに「日本の風土」を再生産してしまうし、その質問自体に排他的なニュアンスを含んでいるのではないかと思うからです。それに「日本の風土はどのようなものか」という質問は、「日本民族性」や「日本の固有文化」という名で繰り返し問われ、結果的に排他的なシステムを作り出していくことを正当化してきました。そして、その排他的なシステムの中に同性愛嫌悪も含まれているのではないでしょうか。

もう一つ、「独善性」の考え方も私と大きく違っているでしょう。運動体と運動に参加しなかった人(できなかった人)をBさんは区別し、運動体の方に責任の結果を見出していますが、はたして両者の間に大きな差を置くことは正当なのでしょうか?なぜ、運動体の責任を追求される一方、参加しなかった人、いいかえれば他の運動や社会活動のあり方を作り出す可能性を持っていた人の責任は問われないのでしょうか。この両者に区別を置いて、行動を起こす人に大きな責任を負わせ、行動しない人の責任を免除することは、暗に行動しないことを奨励していくことになるのではないでしょうか。Bさんのおそらく無意識的に書いた文章に噛み付いているようですが、私には決定的なものだと思います。なぜなら、日本の戦争責任の取り方も腐敗した政治に対する批判も同様の論理展開で語られ、この論理を適用されるがゆえにマイノリティや他の社会運動が週末のちょっとした時間に気楽に参加するものでなく、一生を賭けてしなければならないものとされるからです。これこそが「日本の風土」だと私は思うのです。
2005/05/18(水) 03:58:28 ・ K. (URL) - ・ [編集...]
▼ 「日本の風土」と「独善性」について。
詳しいコメント、ご丁寧にどうもありがとうございました。

「日本の風土」ですが、、「『日本の風土』と称するもの」と一応断り書きをしたつもりなのですが、私は「日本の風土」が本質的に存在しているとは考えておりませんし、本質的な「日本の風土」を探れといっているわけではありません。
加えて、「日本の風土」なるものを一枚岩のように捉えているわけではありません。
多数の現実や状況と申し上げたとおり、「日本の風土」の中に多様性を含んでいると考えています。
ただ、問題としたら、多数の現実や状況の総称として「日本の風土」という名前がいけないのかもしれません。
私が述べたかったのは、多数の現実や人々の意識がある中で、それらを知ることなく運動を起こすことは一方で危険ではないか、ということです。
ですので、私は「生活している人々の意識や現実はどのようなものか」を問う必要があると思います。

加えて「独善性」についてですが、私の文脈では、運動しないできない者に対してではなく、運動する者としての心構えのつもりで書きました。(人によって何様だ、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが)。
先ほど述べた多数の現実や状況を考慮しなかったら、運動することによる一枚岩的な危険性が出てきてしまうのではないか、と思ったのです。
つまり、自己反省のない運動は一方で他の存在を抑圧することになってしまう、と。
あるフェミニズムが、中流階級で異性愛の健常な白人女性を中心にした運動と批判された経緯がありますが、
現状把握するのは常に運動する者として気をつけなければいけないポイントではないかと思っています。
もちろん、そうした多様な人々に神経をまわすことが逆に、面倒と思う人に対して、「行動しないことを奨励していく」危険性がでてきます。ここでジレンマが生じるのではないかと思います。
多様性を考慮しなければいけないとしたら、余計に手間がかかり、それが重荷となってしまえば、結果的に異議申し立ては起きない。
異議申し立てをしなければ、差別・偏見をする人々はのさばる(社会の流れで変化していくかもしれない可能性を除く)。
しかし、安易に異議申し立てを行えば、抑圧のない社会を目指そうとした運動でも、その異議申し立てによって新たな抑圧を生む危険性がある、というジレンマです。

加えて、私は運動をしない者に対しての心構えや責任は別の問題だと思っています。
いまここに運動があるのを知ったとき、それにジョインするかしないかはその人個人が考えるべきことではないでしょうか。
その人なりの判断で参加するしないと判断するような、出入りが自由な運動体でないと、内部に硬直さが出てきてしまいます。
極端に言ってしまえば、連合赤軍のようなかたちになってしまうのではないでしょうか。
運動をしなければいけない、という規範を運動体が作り出してしまったとき、そのとき個人の尊重はどこかへ行ってしまいます。
運動をすることを選ばなかった者、できなかった者の責任は、運動の結果(結果はいつ判断するかは分かりませんが)、そのときに判断するべきことで、運動が萌芽したときに必ず入らなければならない、という意見に対してはきっとK.さんも反対されると思うのですがいかがでしょうか。

>運動に反対した人々や参加しなかった(できなかった)人々の想いも救いとることは、
(よりよい社会を作っていくためのシンポシオンの運動が、結果的に独善的なものになってしまわないためにも!)
運動と同時に現状を見据えていく態度も必要なのではないでしょうか。

加えて、この文章ですが、改めて読むとまとまっていませんでした。すみません。
前半について私が言いたかったのは、運動によって何が得られ、何が見えなくなったのか、ということを振り返ることは今後の運動方針に役に立つのではないか、ということです。
()以降では、私は現状把握をせずに行う運動体の危険性について述べようとしていました。
2005/05/18(水) 22:01:23 ・ B. (URL) qbIq4rIg ・ [編集...]
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